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sugar pot : 安らかな最期

ほろ苦い夢のかけらのおすそわけ

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安らかな最期

2005年05月13日(金) コメント:0 トラックバック:0

医療というものが最良の「生」を提供できるかと言えば、そうではないことを誰もが知っている。QOLなくして何の延命か。が、医療の現場の人々もまた、揺れ動きながら(あるいは揺れ動く心を麻痺させながら)日々患者に接しているものだと思う。



必要な医療とは何か。必要でない医療とは何か。命の終わりを誰が決めるのか。治療さえ施せば簡単に治る病気や怪我でも、命を終えていく医療のない地域の人々が居る。一方で、過剰な医療行為を施され、チューブにつながれたまま意思疎通もままならない状態で命の火をともし続ける人々も居る。

今自分が居る時間と場所、そして場合によっては経済的理由で、与えられる医療というものがあり、それによって死期が決まると言ったら言い過ぎだろうか。いや、それが現実なのだろう。そして私たちはそれをも受け入れなければならないのだろう。なぜなら、人為的に死期を決定することは、公式には誰にも、本人にすら認められていないのだから。

ただ、少しでもQOLを上げることは考えなければならない。私の妹は20代で逝った。彼女が息を引き取る前の数日間、高熱の中意識もなく、傍らに設置された監視機の血圧や心拍数を見て、楽にしてあげたいとどれだけ思ったことか。妹には過剰な医療は施されなかったが、長く患っても尚残っている体力が、彼女の生命を続けていた。母は「若いから死ぬにも死ねないのだ」とハンカチで目頭を押さえるばかりだった。手をさすりながら、声をかけ、目を開けてくれることを願いながら、一方で、もういいよ、と心の中で呟いていた。家族の、偽らぬ心情である。共感してくれる方は少なくないだろうと思う。

誰もが安らかな最期を願っている。それをかなえるのが次世代の医療ではないか。切にそう思う。

この記事を書くきっかけになった記事:『暗川』またもや病院からの空

安らかな最期 II

#881
カテゴリ:016 日常の風景

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