記憶のかけら
FC2ブログstyle:第258回「公開!お財布の中のレシート」
bonkさんの記事を読んで、今放映しているテレビドラマ『セクシーボイスアンドロボ』の第1回を思い出しました。「三日坊主」というあだ名の、3日より前の記憶を失ってしまう男の話でした。その男が大事そうにしていた箱の中身は,レシートや食べたものの包装紙でした。
これが俺のかけら
といったようなことを男は言いました。記憶をすぐになくしてしまう男にとっては、記憶の代わりなる記録ーモノーが必要だったのでしょう。
「三日坊主」でなくても、ひとは記録をします。帳簿や日誌、日記,写真やビデオ。昨今の学校行事は、ホームビデオを構える父親と,デジカメや携帯のカメラを構える母親でいっぱいのようです。旅先でも、あちこちでビデオやカメラ。何かあると携帯のカメラ。
ビデオやカメラのファインダーを通して見る我が子や景色も良いですが、ファインダを通して見ることで失うものもある、そんな気がします。ファインダーを通すということは一歩下がって客観になるということです。多かれ少なかれ演出も考えてしまいます。「後に残す」ことが主になり、無口になってしまったり、どこか構えてしまったりするのではないかしらんと思います。
妻の出産現場にホームビデオを持ち込んだ、などというエピソードを聞くに付け、ビデオの代わりにその温かい手を妻の手を取ることにつかえないのかなぁと思ったりもします。入学式の我が子の晴れ姿は肉眼で見て,しっかりと記憶に刻むのがいいんではないかと思ったりもします。もちろん,楽しんでいる様子にケチをつけるわけではありません。家族がそれを望むなら、傍からのこんな言葉は雑音なだけでしょう。けれど、「記録者」になってしまうと、「当事者」として、その場への関与が減ってしまうのではないか、という思いが私にはあります。
ところで、財布の中のレシートは、記録しようと意図したものではない、日々の記憶のかけらです。bonkさんの言うように、レシートで記憶が蘇ることもあります。私の財布の中には、さっき、祖母宅に通いのクリーニング屋さんの領収書が増えました。「おばあちゃん、お元気ですか」というクリーニング屋さんの温かい言葉と一緒にしまわれたそれは、その言葉と一緒に祖母に渡されます。

















ホームビデオの件で思わず頷いてしまいまして、コメントいたしました。あれは、何か違うような気がしてならないのです
うまく言えないんですけども・・・
年を経て、色あせた写真を見ることのない(たぶん)今の子ども達はかわいそうな気もします。
私も、去年行った東京での切符、友人達との思い出としてお財布にとってあります