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sugar pot : 亡骸と、今際の際と。

ほろ苦い夢のかけらのおすそわけ

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亡骸と、今際の際と。

2006年07月04日(火) コメント:0 トラックバック:1

 私がひとの「死体」をみたのは父が初めてだった。
 これがひとの「死」なのだ、と愕然とした。

Mappy’s「死ぬこと。」

人の死を「死体」を通して感じる、ということはしゅっちゅうあるものではありません。棺に入れられるまで、床に寝かされた死体。身内やよほど親しい間柄でもなければ、そこに居合わせることはないからです。

Mappyさんが書かれているように、私も、同級生や上級生が「永遠に居なくなること」は何度かありましたが、線香をあげたり花を捧げたりはしても、そこまででしたから、やはり「死そのもの」を横たえられた冷たい肉体―であったもの―を通して感じたのは、12のとき、曾祖母が最初でした。

その後、5人の身内を見送りましたが、「亡骸(なきがら)」とはよく言ったもので、「骸(がら)」は「殻(から)」であり「空(から)」なのだと感じずには居られず、死体は「生命活動の終わり」を知らしめるものでした。

Mappyさんはこう書いています。

いつもそばに居た人の死で「自分は生きている」ことを痛感させられる。

いつからか、生き続けることは、ひとを見送ることだと感じるようになりました。既に生命活動を終えた「亡骸」を前に、そして「遺骨」を前に、更には思い出の中の面影にと、徐々に段階を経て別れを告げていく(身近であればあるほど、その時間は長い)こともまた、生き続けることの側面なのだと感じるようになったのは、まだ若い娘を見送った両親の姿からのように思います。

やっぱりきれいな青ぞらと

さて、冷たい肉体であったものになるには、今際の際を経ねばなりません。

14のとき私の心に刻まれた今際の際の風景は、宮澤賢治の「眼にて云ふ」。(「安らかな最期II」

血をごぼごぼ吐き、端から見ると壮絶なのに安らかな気持ちであるというのは、たいせつなひとを見送らざるを得なかった賢治の、心に響く慟哭であり、いずれ自らを見送るひとへ贈る言葉なのだ、と私は書きましたが、もしかしたら、本当にそうなのかもしれないなと思うようになっています。私は宗教的なひとではありませんが、どんなに凄惨に見える今際の際にも最後の最後には安らかで居られるのなら、それは「救い」です。そして、

亡骸になる前に、「やっぱりきれいな青ぞらと すきとほった風ばかり」を、これから見送るであろう(逆縁は避けたいものです)母や祖母にも見てもらいたいし、自らも見たいものだと、いつ来るとも分からぬその最期のときをふと、思ったりするのです。

『宮澤賢治詩集』

#590
カテゴリ:101 インターネット(www)

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骸の青

 小学生のときだ。 教室で飼っていた白文鳥が死んだ。 ピンクだった肢が薄く青にかわり、その色が哀しげで、奇妙に美しかったことを憶えている。 中学3年の夏の日。 親子での買い物から帰り、母は留守居を任せた祖父に、ただいまの挨拶をしに行った。「おじいちゃまっ

  • 2006年07月06日(木)18:22:31
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