2006年05月13日(土) コメント:2 トラックバック:2
「個人情報を売りにしている」などと書くと何かと思われるが、ブログの記事を書くということは、多かれ少なかれ自分の情報を読者に伝えていることになる。
突き詰めていくと「どう考えるか」というのは思想信条であるから、それこそ個人情報なのだが、ここでは、「個人がそれと特定できる一般的情報」について書いてみたい。
たとえばこんなシーンを思い浮かべてみよう
昼下がりの電車の中。可愛い子どもの写真を、一緒に居る友人に見せた。「かわいいねー」「親バカなんだけどね」ひときわ話が盛り上がる。ふと気付くと、真後ろに居る見知らぬひとがこちらを覗き込んでいる。
あなたも友人も黙り込んで、写真はそそくさとバッグの中にしまい込まれるだろう。子どもの写真は見てほしいけれど、見知らぬ人にまでまじまじと見られたくはない。
写真雑誌や育児雑誌に投稿する行為を除いて、一般的にはそういうものではないだろうか。が、ウェブでは、そういうことが公然と行われているのは、既に書いてきた通りだ(過去ログは記事末尾参照)。
なぜ、こういうことが起こるのか?
見えないものは存在しない
人はそういう誤認を犯しがちである。電車の中の真後ろの見知らぬひとの気配には気付くが、ネットの向こうに居る名もなき膨大な数の(かもしれない)読者は、想像しなければ存在し得ない。
日記ブログで普遍化したネタは難しい
冒頭に「個人情報を売りに」と書いたのはこの点。
「ねぇねぇ聞いて聞いて」と身近に起こった出来事をそのまま書く日記形態のブログは、よほどネタが面白くなければ、ごくごく身近なひとにしかウケない。他人が面白がる日常なんて、そうめったやたらにあるものではない。
面白いな、と思う文章は、「書こうとするネタとそこに登場する人物(多くは自分自身と周囲の人々)」が客体視されていて、けっして「日常の記録」にとどまっていない。そこには、ある種の「演出」も混じることもあるだろう。それはかれ、あるいは彼女が「表現したいこと」が先にある限り、正当化されてしかるべきものだ。
だがこうした、「読まれることを意識した文章」を書けるひとは、そんなに多くは居ないのではないか。
そもそも「日常の記録」を「ありのままに」「書くこと」に意義を見出している人も居る(身近な人間だけが面白ければ良い)。そういうひとに「客体視」なんて言ってみても始まらない。だが、「日常の記録」なら、ブログではなく机の上の大学ノートや便箋で良いはずだ。
ブログというツールは、誰でも、オンラインで日記を書ける状況にしてしまった。その結果、広く公に晒される必然性のないものまで、公開されている。
○○ちゃんのよちよち歩きの写真など、面白いのはごくごく周りの数人で、そのために全世界に公開する必要があるかどうか。「真後ろでそれを覗き込んでいる見知らぬひと」はネットの向こう側にも居るのである。それはやはり想像しておいたほうが良いですよ、と、私はこうしてこれからも繰り返し書いていくだろう。
子どもの写真だけではないですよ
以前、「これ以上書くつもりはない」と言っておきながら今回記事にしたのは、以下の記事を読んだため。
ブログに書いたことで、現実に家族が不利益を被るケース。コメント欄にも興味深いコメントがあった。
あきらかに内容で誰だかわかる上に、家族みんなで撮った写真や、友達とでかけた写真を何のためらいもなく出している方に、すごく心配になって一度言った事がありました。一緒に写ってる友達にも被害が及ぶ可能性もありますよね。
それで危険性を書いた記事のURLなども送ったんですけど。でも、「私はこのやり方で行く」と言われてそれ以上は言えませんでした(レンゲさん)
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コメント(2件)
思いもかけず、sugarさんからのトラックバックでドキドキしています。
「ごあいさつ文化圏」の人に倣って、ありがとうございます。と言ってみる。
これは「(わたしの文章を読んで、気にとめてくださって)ありがとうございます」と言う意味もあるのだな、と改めて感じる。
ところで、タイトルの「魅力とは」
実のところわたしも、日常の記録や、感じたことをダラダラと綴っているだけで
読む人に魅力があるかどうか?とは、あまり考えていないのです。
それを考えると、萎縮して文章なんて書けなくなってしまう。
ただ、個人が特定されるような情報は出さない。出しちゃいけない、と思います。
ネットの怖さと言うものは、遠くで起こっていることではなく、
いつどこで起きるかわからないもので、自分もその危機にさらされているかもしれないと思うからです。
子供の顔写真をブログに載せている人にも、この記事達の真意がそのまま伝わりますように。
木蓮さんのブログにもコメントしましたが、
やはり、「読まれる」という視点が大事なのだと思います。
たしかに、
「私の文章は魅力的かどうか」なんて問い始めると、
「萎縮して文章なんて書けなくなってしまう」かもしれませんが、
それでもやはり、「読まれること」を意識して
読み手に楽しんでもらったり、問題提起をしたり、
そうしたことができるような文章を書こうとすることが、
「魅力的なウェブサイト」の第一歩だと思うのです。
独りよがり・内輪ウケでは、ほんとにごくごく一握りのひとしか楽しませんもの。