三池崇史『妖怪大戦争』愛と平和と成長の物語
これは愛と平和と成長の物語である。
『着信アリ』の三池監督が、妖怪研究の大家、水木しげるを筆頭とするプロデュースチーム「怪」と組んで、角川でつくった妖怪映画。「姑獲鳥(うぶめ)の夏」が今日最終日だというのに、こっちに行ってしまった(ま、こっちにも姑獲鳥は居たし)。
以下、もろネタバレ。これからご覧になる方は、ここまで。
とにかく大量の妖怪が出てくる。プロデュースチーム「怪」の京極夏彦・宮部みゆきは私と同世代。つまり、「ゲゲゲの鬼太郎」で育った世代である。馴染みの妖怪たちが画面いっぱいに躍る、これだけでも心も一緒に躍ってしまう。
実際、つくっている側が一番楽しいんではないか、とある意味嫉妬を覚える映画ではあった。個性的でユーモラスな妖怪ども。演じるのもさぞ楽しかろう。
史上初、まったく戦わない映画を目指します。競争なんかしなくても面白いのがお化けですから
(京極夏彦)。そうだった、お化けにゃ学校も試験も何にもない!
のだった(アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌より)。
妖怪の漫画を描きつつ、一方で反戦の漫画を描き続けている水木しげる。だから、この映画に、原爆の爆発シーンを思い出させる(というか、まさにそのものだ)シーンが出てきたとしても、問題はないのだろう。これは立派な反戦映画なのだ。
しかも、「戦わない」反戦映画。「非戦」「不戦」というと非常に厳しく、ストイックな感じを受けるが、ここでは、まさに土着の妖怪らしく、暢気に、のんびりと、「在(あ)る」ことが、勝利をもたらす。戦おうと言われて尻込みした連中も、祭りとあらば駆けつける。祭りと間違って日本各地から集まってきた大量の暢気な妖怪たちが、数で敵を圧倒し、「小豆を洗うだけしか能のない」小豆洗いがこぼした一粒の小豆が、世界を救うのだ。
能力のありそうな者、なさそうな者、さまざまなかたち入り乱れてそこに在る妖怪たちを見ていて、妖怪のルーツはかつて生まれてきて「異形」として闇に葬られたひとびとだったと改めて思い知らされた。だから「人間が憎い。」けれど、だからといって「憎んで滅ぼそうとすることは、自分をそこまで貶めてしまうことになる。だから私は人間を愛す。」のだろう。この切ない思いが、妖怪のすべてを表しているようだ。(川姫の台詞より)
同じく妖怪たちを見ていて「みんなちがって、みんないい。」という、金子みすゞの「私と小鳥とすずと」を思い出した。能力のあるなし、美醜、性格すら関係なく「みんなちがって,みんないい。」妖怪たちはそう体現しているように見える。異形の者として差別を受けてきたからこその深い愛情としなやかな強さ。と言ったら美化し過ぎだろうか?
ともかく、そのような妖怪たちが、その「存在」でもって、戦わずして戦いを制する。「怨霊」すらも勝てないのである。
一人だけ、戦っている人間が居た。「麒麟送子(きりんそうし)」として、妖怪たちの戦いのヒーローとして祭り上げられることになった少年タダシ。タダシもまた、学校というタダシの社会から「離れもの」として扱われている、という点では異形だ。両親の離婚で、母の郷里と言う、自分にとっては見知らぬ土地で、同級生たちに虐められながら、学校に通う。年老いて「異形」となりつつあるじーちゃんを身近に感じながら。
タダシが戦っているのは自分だ。見知らぬものを怖いと思い、身体が震え、立ち止まってしまう自分。それが、すねこすりという、転居してからおそらく初めての友人となった小さなかわいらしい妖怪との友情から、見知らぬものは怖い,けれどそこに正面から向かっていくんだ、いわれのない仕打ちには毅然として立ち向かうんだ、と意識し、自ら戦い始める。なまっちろい都会の幼い少年の顔つきが、段々とたくましい、戦うヒーローの顔つきになっていく。
成長した少年は、戦いが終わって、「白い嘘」すらつけるほどに大人になる。少年時代の慕情に未だに照れているような佐田への白い嘘。ひとのためにつく嘘は、白い嘘だ、とタダシは呟く。
一通り語って、そして私は冒頭の言葉に戻る。これは愛と平和と成長の物語である。
それにしても、ここであなたと会うとは思わなかったよ、加藤保憲。しかも随分姑息になったもんだ。次はいつ復活するのかね?
そういえば川姫の水に濡れてしっとりとした腿はエロティックだったし(感触すら演出で表されている)、映画「2001年宇宙の旅」に出るのか?とツッコミたくなるような衣装をまとった鳥刺しのアギのしなやかな肢体もまたそそられるものがあり。男性陣にはもっとアピールしているだろうなぁ。女性陣には、トヨエツの視線か?(どうしても熱血先生水谷豊に見えてしまった私……わ、こんなこと言ってファンに怒られそう(^^;)

















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